震えるほど激怒した話。
流石に身内の話だから、こうして書くのは辞めようと思っていたけれど、私のメンタルがもう限界です。
事が起きたのは四月。
今までほとんど関わりのなかった、母方の従兄弟が急に家を訪れました。
びしょ濡れの衣服が入った段ボールを抱えて。
叔父は一度奥さんと死別して、再婚。
その従兄弟は前の奥さんとの子で、連れ子同士で再婚していたのだけど。
叔父自身は単身赴任で遠方にいて、従兄弟だけが再婚嫁宅で暮らしていて。
再婚嫁が体調を崩し、経済的に叔父と揉めているのは知っていたけど、まさかこうして子どもを放り出すとは私達も思わず。
祖母は重度の脳梗塞で施設に入所、祖父は施設の隣のケアハウスにいるため、母が従兄弟を一時的にといって引き取りました。
そこから泥沼の話し合いがあり、叔父夫婦の離婚が成立。
祖父母の通帳を再婚元嫁が手放さず、弁護士を立てようと提案したけれど、優柔不断な叔父は多分今でも動いていない。
そうして単身赴任が開けた叔父は、拒否する我が家の意向を無視し、我が家に転がり込んできました。
従兄弟と離れたくないからと。
今まで従兄弟が、虐待紛いの扱いを受けていたのを見て見ぬ振りをしていたのに。
そうして母と妹がじわじわとストレスに耐える生活を送っていた矢先、母のガンの再発が判明。ベッドが空き次第、即入院手術、術後1ヶ月の放射線治療が確定。
気丈にしていた母も、1人になる時間があるたびに私に電話をかけてきます。
とりあえずムンテラ日と、術日前後はバイト休みが取れるように交渉する予定。
医療関係者は、身内で母と私だけだから。
私も最近眠れず、限界を感じるので今日叔父に連絡を取りました。
ストレスの元凶になにも関わらずいてほしくなかったから。
そうしたら、元々今居る家は自分の持ち家なのだから、出て行くのはそちらだ、と。
姉が病気になったのは、自分が来る前の話だ、と。
わかりました、とだけ伝えました。
お金は払って居る、と彼は言っていたけれど、維持費だけで生活費が払われないと母が言っていたことを、私は知っています。私の認識では、ヒモでしかない。
久しぶりに、激怒しました。
叔父は自分から勘当状態のようなものに入ったので、私が成人してからまともに会ったもので。面識はほぼなく、会話にも上ったことがなかったのだけど。
改めて、血の繋がりだけでは家族なんかではないと、思いました。
手が震えるほど激怒しているので、言葉が汚かったらごめんなさい。
これほど怒ったのは、従兄弟が虐待紛いの扱いを受けていたと知り、それを叔父が放置していたと聞いた時以来。
私の父も酷かったけど、お互い大変だね、と会話したのが従兄弟とのはほぼ初めての会話でした。
ああ、どうして母の人生は、こんなになってしまったんだろう。
わかりません。
とりあえず、母の入院に備えて、保険の件で奔走します。やることがあって、よかった。
金銭的に母を助けられないことが、
とても、とても、悔しい。
いつか笑い飛ばすために、
残しておく。
私の今一番の恐怖は、
原因が過去にあることがわかっているのに、時間を遡って解決することはできないこと。
治せないのなら、自分は治らないのではないこということ。
自分が欠陥品なのではないかという恐怖。
父が今更変わることはあり得ないだろうし、あり得ても決して過去は変わらないし、父に対する感情が未来のその先まで変わらないだろうという確信。
父にいつか何かあっても、間に合ったとしても会いに行くことは出来ないだろうという確信。
そう確信してしまえる、自分への恐怖。
そんな自分が、結婚したり家庭を作ることは出来ないのではないかという、不安と絶望と、恐怖。
突き詰めると、つきまとって離れない、自分がここにいていいのかという、恐怖と、絶望。
カウンセリングのその後と経過。
夏が始まる前から、カウンセリングを受け始めた。
そして今、自分の感情が、得体の知れないものになっている。
初回の直後は、1週間くらい、やたらとイライラした。感情がささくれだって止まらなかった。
2回目からは、カウンセリングで話した内容を日常の中で思い出さないこと、部屋を出たら忘れること、と言われた助言を受けて、少し楽になった。
そうこうしているうちに、前回初めて、カウンセリング中に泣いた。
そこから半月くらい、やたらと泣いてしまう日常が続いている。
冷静な時には、具体的に言うと家族の話に弱い。存在を肯定する件が出てくるような、創作物にも弱い。
生き物はこんなに泣けるものなのかと自分で驚愕するくらい、泣いている。
小さい頃から、あまりというかほとんど、泣いたことなんてなかったのに。
まるで一定量涙を流さないと塞がらない、傷を誰かに与えられたかのようだ。
怖い、と感じることも多い。
一緒に住む彼の安否が気になる。
昨年の夏に、彼は車が一度で廃車になる事故に遭ったけれど、今そうなったら、多分耐えられないと思う。
何かあったら、その世界に母と妹がいなかったら、耐えられないだろうと思う。
そして今まで随分と傲慢に、人を傷つけていたのだなと、自分の所業にも怖くなる。今の自分でない頃の自分がしたことを、繰り返せないと思う。
こんなに人は、生きていて涙を流すのだろうか。
こんなに人は、生きていて恐れたりするのだろうか。
もしこれが普通で、みんなその道を通っているのなら、今までの自分は、人ではなかったのだと思う。あまりに何も、恐れていなかった。
感情の殻が、割れた音がする。
傷から溢れたものがいつ止まるのかは、自分でもわからない。
おかえり私の世界。
おかえり。
そう言われている気がした。
近所のケーキ屋さんでのバイトは、徐々に色々な仕事を任されるようになってきて、なかなかに楽しめている。
休むことも嫌がることもなし。
私も、私の心も、身体も。
店長さんや奥さんや他のバイトのご婦人方が、帰り際にはあれこれと、実家で採れたトマトやナス、作ったケーキやクッキーの端っこを持たせてくれる。
生まれて初めての立ち仕事だから痩せるかと思いきや、一向にその気配はなし。
クリスマス前後から始まる繁忙期に向けて、育てられているんだなあ、と感じる。ひしひし。
家事をしながら暮らす、そんな現状に不満はないけれど、ふと思い立って、家庭教師のバイトを検索してみた。
大概は大卒資格を求められるのだけど、そんな中でも一番マメに返事をくれるところが、専門卒でも可とのことで、今その研修に行ってきた、帰り。
契約内容や手順や指導の流れを教わってきた。
具体的な契約案件はまた後日、郵送か電話にて。
ケーキ屋さんのバイトの面接前は、不安で溜まらなかったけれど、今回は全くそんなことはなかった。ちょっと散歩に行く感じ。
事業所を仕切っている人がなかなかの切れ者で、久しぶりにわりと頭を回して会話をしたのも、楽しかった。
自分が勉強をしていて、躓いて困ったことは?の問いにだけ、即答できなかったけれど。
文字を教わる前から浴びるように本を読んでいたからかな。
少し、自分の世界へ帰ってきた気がした。
初めてのことだらけできっと全てが手探りだけれど、ほんの少し、楽しみ。
初めてのことが楽しみだなんて、いつ以来だろう。
どこから物事を視るかの話。
私の妹はYouTubeが好きで、
はじめしゃちょーが好きらしい。
昨日出かけていて、
MacBookの天ぷらの動画を観て、
「ゴミだって、最初に言ってるのにね」
と言っていた。
炎上したことを、少し不満そうに。
ゴミだっていうのは、誰が決めたの?
MacBookを売った人が、これはゴミです、って言ったの?
ゴミだって決めつけたのははじめしゃちょーじゃない?
と言っても、ピンとこなかったようなので、
例えば君はうさぎの縫いぐるみも好きだけど、もし古くなったその縫いぐるみを、誰かがゴミって決めつけて、燃やしたらどう思う?
君にとってのうさぎと、その人にとってのうさぎはどう違うの?
それはゴミじゃないの?
と返したら、ものすごく納得したらしく、目から鱗が落ちたような顔をしていた。
想像力と、どの立場から物事を視るかの話。
すごく印象的だったので、残しておく。
私にとっての大事なもの。
妹にとっての、大事なもの。
小さく旅する人生。
日本人の4割くらいは、生まれた土地を生涯離れない、と何かで聞き、驚愕した覚えがある。
北関東に生まれ、
親元を離れるために状況進学し、
静岡に就職。
色々あって実家が千葉に移り、
更に色々あって今は千葉と茨城で二重生活をしている。合法だけれど。
学生の頃も毎週のように東京に行き、
就職してからも勉強会のために、最低でも月に一回は東京に行っていた。多いと毎週。
電車での移動が全く苦じゃなくて、
読書と思想と安眠の、幸せな時間の使い道だと思っていた。
今も鈍行で、茨城へ帰っている。
また今月中に千葉に一度は戻る。
私は一生、小さな旅をし続ける性分なのかと思ったら、少し、嬉しくなった。
誰かに会いに行くために、旅をし続ける人生。
過保護のカホコと、理想と現実。その先にあるもの。
過保護のカホコ、第一話を観ました。
前半は、なんだこの異次元世界は。。という感じだったのですが、
最後の、カホコがどんな仕事をしたいか、と気づく場面で不覚にも、うるうる。
「誰かを幸せにする仕事がしたい。」
きっと私にしか出来ない仕事があるはず、と続く。
私も、そうだったなぁ、と思い出しました。
基本的に病院で働く仕事は、誰かの怪我や事故や、
そういうできれば避けたい事象の後に成り立っていて。
誰かの不幸の上に成り立ってるんだな、と思ったこともある。
それでも痛い思いをしたり、病気になったあと元通りにするために、
元には戻らなくても、その人がその人らしく、
病気や事故なんてなかったみたいに、生きていけるようにするためのお手伝いをしたい、と思ってた。
今でも、その気持ちに大きく変わりはない。
でも、病院でばりばり働いていた舞台から、私は一度下りざるを得なくなって、
今は毎日、第一線で働くうさぎさんの後ろ姿を見ている。
彼は私が一年目の時に既に五年目、今では八年目で役職がついていて、
今彼の在籍する通所の事業所に、理学療法士は、彼一人。
私には見えないものが、きっと彼にはたくさん見えている。
就職前に、この道で生きてみようと思えた時に、側にいてくれた人であり、
そういう道もあるのか、と教えてくれたひと。
根っこの部分では、私と大きくは変わらないひと。
でも話を聞いていると、一人で出来ることの限界ばかりを感じている、ように思う。
患者様を見た時に、ああこの人は、こうすればきっとここまでは良くなる、とわかる。
どうすればいいか、少しは経験も知識も技術もある。
だけど五十人弱の利用者様に対して、資格を持つセラピストは自分一人。
そこにどれくらいの、絶望があるのだろう。
新人の頃は、先輩のように結果が出せなくて、教えてもらったり空き時間を作ってもらい見学したり、
休みの日は勉強会に行ったり、必死だったけれど、ある意味では明確なゴールがあった。
その先に、あるもの。
誰かの幸せをつくる手伝いをしたい、誰かの役の立ちたいと願う、その先にあるもの。
時間も資源も人手も限られた中で、理想を通すその方法。
きっとこの問いに、明快な答えはない。万人に共通の答えもきっとない。
私もまたいつか、きっとそこにいきたいと思う。戻れたらと思う。
それまでに、考え続けていきたいと、思ってる。